全てはここから始まった。ホンダの創始者、本田宗一郎の一生

夢は少年時代に見たエアショーで見た「飛行機を作る」。そんな飛行機を作る夢のために作った「バイク」にも翼のエンブレム。作った「エンジン」は今ある青空のために。宗一郎が目指す「世界のホンダ」の姿とはなんだったのでしょうか。
全てはここから始まった。

「失敗する権利」「反省する義務」。「やってみろ」の現場主義者

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出典:hikarujinzai.hatenablog.com

ホンダのカミナリオヤジとして恐れられつつも愛された創設者本田宗一郎。そんな彼自身は会社経営者という意味の社長ではありませんでした。事実彼は会社の社印を見たことが無いと言うのですから…。そんな彼が常に目を向けるのは「現場」でした。文字通り開発現場に通いつめ、社長室での会話も開発の進捗具合やデータ検証。もはや「社長室 兼 開発室」ですね。

「失敗する権利」と「反省する義務」。彼の格言にある考えは現場主義者の彼ならではと言えます。「とにかくやってみろ。失敗という結果も成功のための貴重なデータだ。反省して成功につなげる為のデータだ。」と言ったところでしょうか。かのエジソンも同じような考えの持ち主でしたね。多くの人は「失敗」というとそれを恐れて、何とかして「一発成功」を…と必死に考えますが、彼はそんなこと許しません。彼から見れば「下手な考え休むに似たり」と言ったところでしょうか。「考える暇があるなら、納得するデータ収集して来い!早くしろ!」こうお叱りを受けるのがオチです。しかし、その成功の追及過程で生まれてしまう「失敗」を彼は大事にするために「反省する義務」も課しました。「失敗」という結果に目を背けたり、蔑ろにさせないために出したものです。

実際にレースの世界で数々の伝説とも言える結果を残してきたホンダも、その結果を得るためにレースにおいて様々なトラブル=失敗を経験し、反省したところから今日までの成功を掴み取ってきました。

「会社のためにやらなくていい。自分のためにやれ。」

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彼自身が会社経営は藤沢氏に丸投げといった状態でした。開発に専念したのは「会社の為じゃなく、自分がそうしたいから」だったのです。その考えを彼は現場の社員にも常日頃から言ってました。

「自分のしたいように」「自分が望むことを」の精神は、やがて現場に行き届きます。1959年のマン島TTレースで6位入賞したことで、本社の経営陣(宗一郎は除く)から「株価がこれであがる。よくやってくれた。」と電報が届きました。多くの人なら喜ぶところでしたが、チームは逆に「俺達は自分の夢の実現のためにやってんだよ。株価のためじゃない!」と憤慨します。特にこの時はマン島参戦前のレース中の不慮の事故で亡くなったライダーがおり、本来ならこのマン島でも走っていたはずの夢半ばでこの世を去った彼の遺影と遺髪を現地に持ち込んでいました。夢半ばで散った故人の夢も背負ってたチームにとっては入賞ぐらいでは満足できない中で、株価の話など無神経な事この上なかったのです。株価電報で憤慨したことで、その後より一層チームは奮起します。むしろ自分達が目指していた「マン島優勝」ですら目標とするには低いものだったのではないでしょうか。ホンダの品質において宗一郎自身も「120%を目指せ」と口にしていたと言います。

そんな「優勝100%+@20%」が目標のホンダチームは1961年マン島TT125ccクラスで1位から5位を独占し、ラップレコード樹立・総合レースタイム新記録など圧倒的な結果を残しました。

お客様・社会の目線で考えられないなら…俺は社長を辞める!

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レースで輝かしい記録を残し続けたホンダですが、その目は自社の車を乗る「お客様」とその車が行き来する「社会」にも向けられていました。この手の話ではよく宗一郎からカミナリが落ちてたようです。お客様目線でない設計を見つけると「これはどういうことだ!」と時にゲンコツまで飛んできたと言います。

「会社のためではなく、自分のため」「そしてお客様・社会のため」と考えていた宗一郎もCVCCエンジンという現代のエコカーエンジンの基礎を築くこのエンジンの出来栄えに大変満足してました。開発陣も「このエンジンにはオヤジ(宗一郎)も喜ぶだろう」と思ってはいました。が…そのオヤジは「このエンジンで米国BIG3とも対等になれるぞ!」と喜んでいました。社長の立場からすれば当然ですが、「マン島TTの頃より”会社の為じゃなく…”と言っていたオヤジが…」「今まで夢を追ってきた。今回は”綺麗な空を後世に”と言う夢だったが…オヤジはこの夢を理解してくれないのか…!」開発陣は今までの宗一郎からは想像出来ない別人に見えたことがショックで、当時の河島専務にその憤りを訴えます。河島氏もかつて技術者としてレースチーム監督も務めた人で、開発陣の訴えを理解した彼は宗一郎にその事を伝えます。

「会社本位思考の”タダの社長”だ…」と気付いた宗一郎はこれを期に社長退任を決めます。しかし、開発陣に自分の理念が根付いてる事に満足しての退任でもありました。